『神の化身たち』第一章の「ダルシャン」においては、11歳の少年サティヤナーラーヤナへの師である母の教えが語られています。
そこで始めに言及されるのが「時間」です。
「時間」は、ニュートンによって何にも影響されず、いつでもどこでも流れる「絶対時間」として認識されていました。それがアインシュタイン後は、どんな時でも一定のものではなく、観測者同士のすれ違う速度によって異なる「相対時間」だと認識されています。
サティヤへの母の教えにおいては、時間に関して「やがて破壊される時間」「破壊されない時間」「時間の超越者」があり、惑星の運行に基づいていると教えられます。
これは時間には、相対的時間(やがて破壊される時間)と絶対的時間(破壊されない時間)があり、それらの時間を超越した状態が存在していることを示しています。そして時間の基礎はまずは惑星の運行にあると示されています。
第一定義 時間は惑星の運行に基づいている
よく考えてみると時間は惑星の運行に基づいたものだとわかります。太陽を地球が一周するのが一年であり、月が地球を一周するのが一カ月の基礎となっています。そして地球が自転し一周するのが一日です。
一秒や一時間は人間の身体感覚ではあまり惑星と関係ないように感じられますが、それでもこれらの単位は、一日、一カ月、一年といった惑星の運行に基づく時間が基礎となっています。
「もし太陽と月がなければ、時間はどのようになるか?」という問いは、時間の正体に迫る有益な問いで熟考の価値があるものです。
第二定義 時間は破壊され得る
時間が破壊され得るというのはニュートン的な「絶対時間」の観点から見るとありえないものですが、アインシュタイン的な「相対時間」を知る現代人にとっては近づきやすいものではないでしょうか。
時間は破壊されるものであり、さらにそれを超えたものが存在すると語られます。また少し複雑ですが、破壊され得る時間を包含する永遠が存在し、それが「破壊されない時間」として語られています。
第三定義 時間はパラブラフマンの意思に依存する
この「破壊されない時間」も「時間の超越者」も永遠のものだが、「時間はパラブラフマン(時間の超越者)の意志に依存する」と語られています。
「永遠がいつ生じるか?」という問いは、その中に矛盾を含んでいて、私たちの論理的な思考を超えています。ですが、永遠の時間はパラブラフマンという純粋意識の認識として生じているということがここで精妙に語られています。
つまり私たちの「思い」や「認識」こそが実体の根源であり、私たちに認識されて初めて時間が存在するということを表しています。
私たちは客観的に流れる時間の中にいて、私たちの身体が朽ちて死んで消えていっても時間は存在すると思っています。しかし、これが180度逆であるということが教えられています。
これは理解するのが簡単な概念ではありません。11歳のサティヤナーラーヤナにとってもすぐには把握できないものでした。そのような時にサティヤナーラーヤナがとった手段は、マナナ(繰り返し思い返すこと)でした。このマナナは瞑想とも言えるものです。
ウパニシャッドの方法論として、まず真実を知る者の言葉についてのシュラヴァナ(聴くこと)があり、次にマナナ(それを繰り返し思い返すこと)があります。その長いプロセスを経てついにその概念を体得し実際の経験にするニディィヤーサの段階が来るとされています。
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